幼い頃から、ずっと長かった髪を肩程まで切った。

何か大きな理由があったわけではないが、人から言われたってのが半分、自分の細くて長い髪を管理するのが大変になったのが半分ってところである。

これまで何故頑なにずっと同じ髪型を続けてきたのか思い返すと、他にしたい髪型がないという惰性と、大学生になっても高校から風貌に変化のない私が当時の友人に安心感を与えるのが好きだったという理由からだったと思う。
高校卒業しても、私は外も中身もあの時のままなんだよということを体現したかった。実際に、高校の友達はそれをとても喜んでくれるのである。

でも、そんなことを続けていてももう私は21歳であり次の春で大学生4年生になってしまう。いつまでも変わらないフリをしていられるわけでもなく、将来に向けて考えなくてはいけない案件に取り巻かれている最中なのであった。
擬似高校生を装うのはもう許されないのだ。それを察した瞬間、私は自分の髪に対する執着を失った。そして、その日の勢いでなんとなく髪をバッサリ切ったのだった。

髪が短くなったからって私自身が変わるわけではない。相変わらず私は文章一つとっても拙くて幼いままだ。
それでも、私はもう大人であるという扱いを受け入れなければいけない。これから大変な時期に差し掛かり、憂うことだらけだろうと今から予測もできる。そんな心配とは裏腹にも何故だか私は、髪が軽くなったおかげか、何処へだって行けるような気がした。


でもやっぱり、高校当時私の長い髪を梳いてくれた友達の手は今でも恋しかったり。

春に帰ろうか

3月26日、晴れのち雨。本日の東京の最高気温は18℃。

上野公園では、例年並みであるらしい開花予想の桜が咲きはじめていた。
今年も、春が来たのであった。

春先のこの待ち望んでた柔らかい空気を、ジンチョウゲの強い香を、空に滲んだ月を、私は知っている。

去年の春にも、一昨年の春にも、それよりもっと前にも体感してきた。
春先の感覚というのは、冬が終わった喜びから強く私の中に残っているものである。

春夏秋冬を巡って、一年で私はこんなに変わってしまったというのに同じ春に戻ってくる。
去年の春から、今まで知らなかったことを知り、無かったものを得ては、時に捨てたりもしてきた。
四季を駆けて、私はまた変わったのだった。危惧していたことが起こった、新しい価値観を手に入れた、大切だったものを失った。

こんなにも私は変化したというのに季節はいつの年も変わらない。だから余計に一年前の自分や思い出を見つめ直してしまう。あぁ、また私は変わってしまったなぁ。

きっとまた新しいなにかを身に付け、大事なものを失くして、来年同じ春に戻ってくるのだろう。

久しぶりにここに手を付けた。最後に書いたのは去年の夏か秋くらいだろうか。
それまでにも何度か更新しようとして書いていたのだが着地点が見つけられずそのまま下書きとして眠ってる記事がいくつかあったりはする。この記事もそのうちの一つにならないと良いのですが。

文章を書こう、と思うきっかけは多々あれども、やはり圧倒的に多いのが気分が塞ぎ込んでしまってるときである。
例えば、こんないいことがあった、何処へ行った、素敵な音楽をみつけた、などの出来事も文章を書く意欲を見出す大きな要因なのだが、それらはTwitterで日々小出しに発散されてしまう内容なのである。しかし、鬱々と訳のわからない鬱憤をぶつけることはできない。いや、実際はしているのだけれどもそれは希釈されたほんの一部であり、言いたいことや核心は徹底的にぼかしてるのである。何故そんなことをするのかと言うと単にチキンだからとしか言い様がない。
仲の良い一部の人たちだけがフォローしてるアカウント(所謂裏アカ)なんてものを作って、そこで鬱々とくだを巻いてたりなんてことはもはや私の日常であるのだが実際にその人達に悩みだとか弱みを見せられるかと言うと一人もそんな人はいない。話しても嫌われないし口外されないということはわかってるし信頼関係は確実に築いてるのに。
自分の精神面と結び付いた問題というのは本当に理屈ではない。この人は大丈夫な筈なんだとわかっていても自分の見せられない領域の話をしてみようとしたりあるいはあちらから触れられたりすると途端に頭が整理できなくなり、言葉が上手く出てこなくなる。
おそらく今まで、誰にも何も言わないことで自分を保ってきた節がある為今更それを揺るがそうとするのは心に大きな負担がかかることなのだろう、と自分で勝手に納得している。


ここまで書いて、何が書きたかったのだかわからなくなってしまった。とりあえず長文が書きたかっただけなのかもしれない。読み返すと趣も何もない文章だ。
とにかく昨日は自分の限界が急にきてしまったのだった。じわじわと日々蓄積されていってることはずっとわかっていたが思ったより早かった。もう私は自分が傷付くのも人を傷付けるのも止めにしたい。
久しぶりに会った小学校からの友達がとても幸せそうにしていた。私もそう在りたいと、願ってしまった。

空か海かわからない夜を沈んでいく

漠然と、何か書かなきゃいけないと思った。

はっきりと書きたいものがあるわけでもないけど、胸につかえたものが多過ぎる。その正体も改善策もわからずにもやもやしながらここのところずっと過ごしている。

夏が終わり早くも冷たい空気が流れる日々だが、どうしても気持ちが夏から前へ進まない。毎年夏の終わりには時の流れの非情さを嘆いているのだがこんなに虚無感溢れる夏の終わりもなかなかない。
夏休み当初は夏こそサザン!ということでサザンばかり聞いていたが夏が過ぎたら過ぎたでサザンの去った夏を想う曲をやたら聞いている。復活した嬉しさもあるのだけれど。

サザンは、今年の夏の象徴だった。聞くだけで、夏休みのことを鮮明に思い出せる。だから夏から気持ちが進まないのかな。しばらくサザン聞くのやめようか…つらくなりそうだけど割と効果ある気がする。

何か秋冬にちょうどいい音楽あるかな。いつも秋はシューゲイザーを聞いていることが多い。心に吹き付ける木枯らしとシューゲイザーはよく合う。シューゲイザーの切ないファズの音がとても好きだ。
そういや今日TSUTAYAいったら店員さんのネームプレートの下にその人オススメのアーティストが書かれてあってそれがマイブラッディバレンタインだったもんだからついマイブラでオススメはなんですか?と話しかけてしまった。そしたら店員さんちょっと驚いたあと嬉しそうに説明してくれた。マイブラ、一枚しか聞いたことないけどいいですよね。今度お兄さんがオススメしてくれたアルバム借りにきます。ついでにお友達になってほしい。
私は聞く音楽がかなり日常に深く介入するタイプようで、その影響力はなかなか計り知れない。おそらくシューゲイザーやらエレクトロニカやら聞いてる人なんてそんな人ばっかだ。というか、外歩くときなんか音楽聞いてないとパーソナルスペースが確保できない。それは私の性分が悪いのだけれども。

とりあえず、何かいつもとは別の音楽を聞くというのはかなり気分転換になる。幅広いジャンルを網羅できてるわけではないけど久々にシューゲイザーを聞いたら少し気分が晴れた。少し久々で、ちょっと前のことを思いだしたりもする。
何か新しいアーティストに出会いたい。もう一度相対性理論i am robot and proudに逢った時のような衝撃とそれに注ぐ情熱を思い出したい。今はとにかく真新しさを欲している。


あぁ、季節に置いていかれてる。もはや10月が始まりそうだというのに。この、冷たい海をひとり泳いでいくような感覚。冬は寒い。冬は嫌だ。夏がこないのなら、生きる意味なんてないよ。本気でそう思っている。
最近はTwitterに言いたいことも言えずにただ当たり障りのないことを言って終わるだけになってる。別アカウントを持ってもほんとうに言いたいことだけは何処にも言えない。ここにだって言えない。
どうしてこうなってしまったか、何がこんな状況を作ってしまったのか、それは間違いなく自分が悪い。だからどこで何も言えなくても文句はない。
疑心暗鬼になってる、その通りなのだと思う。存在するかもわからないことに怯えて過ごすのが疲れてしまった。自分のことを信じられないと他人も信じられないというのはまさにその通りなのだと思う。人に見せられないスペースの線引きを多めにとってそれを誰にも分譲せず一人で占めるつまらない人間になってしまった。自分をすり減らせてでも他人にそういった弱いところを見せ合って人との信頼関係が構築できるのであろうのに。20才にもなって頑なにそれをしようとしない。今できなかったら今後一生できないのではないかと心配になる。
それでも、一人でいるのが必要な時期もあると思う。
隣に人が居てくれる状態に慣れてしまうというのは、恐ろしいことだ。
私というのは本当に許容範囲の狭い人間である。それは間違いなく自身の未熟さからきているのだとわかっている。わかっていても、耐えられないものは耐えられない。
私はきっと、これでちょうどいいんだろう。

月夜にまぎれて隠れた恋の街

夏の終わりに京都へいって参りました。
二十歳にして人生初京都、ある意味中学生とかのなにもわからない時期に行くよりこういった観光地の楽しみ方を知ったこの歳に初めて行けてよかったのかもしれない。何もかも新鮮で感動だった。
行く前に色んな人に京都は暑いと脅されていたのだけれども行ってみると東京とそこまで変わらず。それはそれで夏も終わるんだなぁと寂しくなった。
初回だったのでベタな場所しか回らなかった。清水寺、銀閣寺、嵐山、伏見稲荷大社…夏休みとはいえお盆ではないし京都は春と秋がシーズンらしいので人は多くなかったと思う。
なんでも紅葉の見頃の秋が一番混むらしく、東福寺周辺にあったお庭を回っていたら他の観光者のサラリーマンらしきおじさんが「ここは秋はチケット買うだけで1時間かかる」と話していて驚愕した。
その時は本当全然人がいなくてのびのび回っていたのだけれども一時間待ちの大混雑状態だったらと思うとこの時期に訪れて心底よかったと思う。モミジの多い庭で、紅葉の頃はさぞ綺麗なのだろうなのだろうが、こういうのは雰囲気も含めて大事なのだと思うのでひしめき合いながら眺めてもなんだかなぁ、と。私が極端に人混みを忌み嫌ってるだけなのかもしれないが。
でも、私は青々とした葉も目に眩しくてとても好きだ。特にモミジの青い葉の透け感は他の葉にはないほど美しい。緑に輝く広い庭を独占できたのはとても満足に思う。

一番インパクトがあったのは伏見稲荷大社の千本鳥居でした。やっぱり生で見ると圧倒される。ガイドブックじゃほんの少ししか載ってないのだけれども外国人観光客には大人気なようで日本人より外国人の方が全然多かったと思う。
祇園で着物を借りて伏見稲荷まできたのだけれども外国人観光客に写真をもう撮られる撮られる。一緒に撮って!!と声をかけてくる人もいれば何も言わず勝手に撮ってく人もいる。大概は勝手に撮ってく人でしたが。
欧米系の人達は一緒に撮って!!と話しかけてくるのだけれどもアジア系の人達はとにかく無言で撮る。撮られたあと目が合った時どうしていいかわからないので一言声をかけてくれればよかったのに…。今頃私達の写真がFacebookで色んな国のアカウントからアップされてるのでしょうか。

幼馴染ともいろんな場所へ行ってるけどここまで遠出したのは初めてだ。大学生になって行動力がついたなぁとつくづく思う今年の夏。



ああ、夏が行ってしまうんですね。毎年この季節は行き場のない寂しさと切なさに溺れている。この前まで夜も暑かったのに今は風が少し冷たいくらいだ。そのくせ、昼は暑くて目に沁みるような夏空だというのに。昼と夜のギャップがまた寂しい。夏を待ち遠しく思っていた数ヶ月前が途轍もなく懐かしく感じる。やっぱり今年の夏もあっという間だった。夢のように、幻想のように覚束ない時間だった。
二回目のサザンのライブも終わったし夏をやり切った感はある。充実した8月だった、こんなに色んな場所に行った夏もないんじゃないかと思う。あと二回しかない夏休みだし、有効に使えて満足してる。
色々と巡って楽しんでるのだけれども、常に様々なことが心に引っかかってしまう。純粋に目の前のことを楽しみたいのにどうしても付きまとってくるものがある。それも一つではない。私はいい加減これらの悩みから解放されたい。出かけてる時は心の片隅に引っかかる程度なのだが何もしてない時こそ私はそれに飲み込まれどうしようもなく苛まれる。呼吸が浅くなり、自分の行動を後悔し各方面に心の中で懺悔する。最近は場所を選ばずその穴に落ちることが多くなり、人に迷惑を掛けてしまうこともあった。不安定な状態が続いている。
今私を取り巻く環境の中から脱却したい。新しい人や久しく会ってない人と話したい。不遇な家庭環境の中でも健気な福岡の従兄弟に会いたい。いつも渋谷のスクランブル交差点のTSUTAYAを利用していると言っていたあのお姉さんに会いたい。
あまり限られたところに傾倒すると時に苦しむことになる。私には今新たな別の繋がりが必要なのだと思う。
願わくば25歳一人暮らしOLのお姉さんに構ってもらいたい。どこに行けば出会えるのでしょうか。男の人より女の人と出会って知り合う方が遥かに大変なのではないかと思った。きっかけもないし。
とりあえず今自分の中を占めるものをどこかへ追いやりたい。こんな文書いてしまう程度には切羽詰まっている。時間がどうにかしてくれるものなのではないかとぼんやり思いながら凪を待ちつつ過ごしている。


暗い夜空にまた一つ秋が流れた。
"お互い素敵な夢を叶えましょう"って、なんて綺麗で切ないフレーズなんだろう。

基本的に私は何処かへ行ったとか何かした時ではなくもやもやした場合にブログを更新することが多い。今回も眩暈がしそうなほどもやもやしてるので書くことにしたけど勢いで書くから書きたいことが上手くまとまらないかもしれないけどいいや、とりあえずこの気持ちをどうにか発散したいです。

とにかく上手くいかないことだらけで、反省したり後悔したり何も動けず何も変わらないままで夏を消費していくのがとてもつらい。本当は何も考えず全身全霊をかけて夏休みを満喫したいのだけれども。そうもいかないです。
今日都内の某公園に向日葵を見に行ったら少し遅かったみたいで大半が枯れかけてた。それを見て、夏が去ろうとしてる気配がしてどうしようもなく切なくなった。まだやりたいことやりきれてないのに。暦の上ではもうあと二週間しかないんだ。どうしていつもいつも夏はあっという間なのだろう…まだしばらくここにいてほしい。また向日葵が見たいんです。向日葵畑の中で向日葵に埋れて帰ってこれなくなりたい。
清瀬ひまわりフェスティバル行きたいなぁ。あともう一週間8月が増えたらよかったのに。
でもまぁ8月が終わっても私の夏休みはしばらく続きます。夏休みの終わりこそが真の夏の終わりだね。
嫌だなぁ、終わってしまうのは。こんなに色んな気持ちでいっぱいになる夏もなかなかなかったです。
秋がきたら、ひとりでお月見でもしようかなんて考えてる。あと向日葵畑の次はコスモス畑にでも行こうかな。秋の澄んだ空とコスモスはどうしてあんなに似合うのだろうか。
冬になったらどうしよう、何も楽しみがない。花もなければ隣に居てくれる人もいないしひとりじっと春を待つだけの季節です。ひとりなのは、今に始まったことじゃないけれども。むしろ好んでひとりなのではあるけれども、冬の孤独感は心に吹き付けるものがある。
きっと、夏は楽しかったなぁなんて思いながら過ごしてる。現在ですら、心の中で何度も反復させてるのだから。
今は心に平穏が欲しいです。色々気持ち的に疲れたし考えれば考えるほど悲しいくてどうしようもない。何時の間にか歯止めが効かなくなったのも悲しさを忘れていたのも夏のせいだ。夏が終われば全部元通りになる。夏のまぼろしだ。今は、想い出に残るひと時…そういやサザンのライブにまた当たりました、嬉し過ぎて溶けそうです。最高の夏をありがとうサザン……今年の夏はサザンの夏です。ところで私一回の記事で何回夏って言ってるんだろう。数えるのも面倒なくらい言ってるけども。
書き切った感あるからここまでにしておきます…もう自分で何書いたんだか覚えてもないので朝起きて後悔しないといいです。向日葵が揺れる夏ですね。

あの夏は夢

時々自分の口下手さや思うことを的確に表現できないことをとてももどかしく思うしうんざりもする。どんどん悪化してきてる気すらする。だからせめて文章で多少なりとも整理できたらいいなと思うのだけれどもこれもなかなか上手くいかない。でも、人に思ってることを伝えるのって相当難しいことだと思うんだけどな。言葉にして伝えた時点で受け取る側は主観で受け取るんだからそこには微妙な齟齬や語弊が生じえない。テレパシーでも使えたらいいのですが。
どんな気持ちも言葉にすると普遍的なものになる。所詮言葉は記号だ。おおよそのことは伝えられても微々なる感情は伝えるのが難しい。そのところをどうにか自分の考えや思ってることを限りなく的確な形で表現しようとみんな奮闘しているのだろうけど。文学ってそういうところから来てるのかな。まぁ私はおおよその思ってることすら伝えられなくて困っているのですが…


そんなことはどうでもよくて、待ちに待った夏休みに入ったんです。一週間くらいそろそろ経つけど見事に遊んでばかりです。夏満喫してます。
嬉しいことにサザンのライブに当選いたしました。やったああああああああああ私はこの夏に死んでも悔いはない!!!ありがとうサザン!!!!!
今年も楽しい夏休みになりそうです。夏休み終わってほしくないなぁ。人生であと3回しかないなんて。夏休みだけが私の生き甲斐だったのに。
悔いのないように遊んで、大人になったら学生時代の夏休みのことを思い返して過ごすんだ。心の拠り所にするんだ。
大人になっても夏は楽しめるけどやっぱり学生の夏休みは格別だ。後悔しないよう過ごしたいものです。


ふと思ったけど感情を伝えようとしなかったり押し殺してることがあるからどんどん口下手になってるのかもしれない。アウトプットができなくなってきているのでしょうか。
普段から思ってることを人に言わない事が多々あるので伝えなきゃいけない時に上手く伝えられない。
なんだかんだ一人でいるというのは本当に楽だ。自称かまってちゃんだけれど人に依存しないようにしてるから一人でも何ら苦ではない。もちろんずっと友達に会わないと会いたいなとは思うけれども。
しばらくは、思い出を抱えて過ごしていこう。寂しくなったら、それに浸かるんだ。そうするのが一番心が穏やかでいられていい。
白昼夢を見ている。まだ夏は終わっていないけど、幻想の最中にいるんだと思う。
きっと毎年夏がくるたび、この夏の事を思い出すんだろう。